道を拓いてきた男が 道を創る

VOL.291 / 292

野田 英樹 NODA Hideki

元F1ドライバー NPO法人青少年少女 モータースポーツ振興会代表理事
1969年生まれ。大阪府豊中市出身。13歳の頃からカートレースに出場。
ステップアップを重ね20歳で渡英、イギリスF3、国際F3000を経て25歳でF1にデビュー。
その後アメリカ、日本のトップカテゴリーレースで活躍。
引退後はレーシングアカデミーを作るなど後進の育成に力を注いでいる。

HUMAN TALK Vol.291(エンケイニュース2023年3月号に掲載)

F1をはじめとするトップカテゴリーのレースで活躍後、現在は後進の育成に尽力する野田 英樹氏。
若き天才ドライバーとして国際的に活躍する愛娘のJUJUさんのサポートでも話題の氏が語る車とレース、そして人を育てる難しさとは。

道を拓いてきた男が 道を創る ---[その1]

 本当に車好き、車にしか興味が無いような子供でした。当時は今みたいに世界のレースの情報がリアルタイムで手に入る時代ではなかったし、幼少期からカートに乗る人も稀でした。だから私も初めてカートに乗ったのは13歳の頃。練習を始めたらどんどん上達していくのが嬉しくて、3ヶ月も経たないうちにレースに出場してましたね。その頃の私はレース業界のこともF1やF3などカテゴリーのことも知らなかったし、レース業界に知り合いもいない。ただ、漠然と車関係の仕事をすることは決めていたし、車が自分の天職なんだっていう意識だけはありました。ただの少年の思い込みですけどね(笑)。

1994年 ラルースからF1に参戦

意思があれば道は開ける

 その頃の4輪のレース規定では18歳にならないと出場できなかったこともあって、高校卒業後にはレースの世界へデビューしたいとは思っていました。でもそんなツテは全く無かったので、カートの最後のシーズン時に周囲のレース関係者の方々に片っ端から「レースに出たいんです」と自分の意思を伝えて回ったんですよ。そうしたら「じゃあ乗ってみる?」って言ってくださる方がいてレースにデビューできたんですね。自分の意思を周りに表明することの大切さを感じました。その後、ご縁があってホンダと中嶋悟さんが起こした育成プロジェクトの一番最初の若手ドライバーとして話をいただき、自分も海外に行って挑戦したいという思いがあったので二つ返事で乗りました。イギリスにある中嶋さんのところに下宿させてもらいながらホンダのサポートもいただきつつ、最初の1年間はフォーミュラヴォクソール、翌年はイギリスF3と合わせて2年間のキャリアを重ねました。それからは中嶋さんの元を離れ、独りでもう1年F3、それから国際F3000とステップアップし、ついにF1の玄関口へと辿り着いたわけです。

F1チーム パシフィック・グランプリで極秘テスト中の1コマ

F1の夢と裏

ラルースというフランスのチームからF1にデビューしたんですけど、そこに至るまでは非常に複雑でしたね。ラルース以外からもオファーがあったり、政治的な動き、駆け引きも色々とあって「さすがF1だな。話には聞いてたけどすごい世界だな」ってデビューする前から結構疲れちゃいました(笑)。それでいざラルースの車に乗ってみたらまともに走らない(笑)。「なんだこの車は!?」って驚きましたよ。ひどいじゃじゃ馬でね。これじゃマクラーレンやフェラーリ相手に勝てるわけない、ここからどうやって上がっていこうかという焦りとF1で走れる嬉しさとで複雑な心境でした。この環境の中で自分がどれだけの力を見せることができるかが次のステップに繋がる、それだけを考えていました。
 翌年はシムテックという小さなチームと契約したんです。裏話になるんですけど、私をシムテックに乗るように仕向けたのは当時F1を仕切っていたバーニー・エクレストン(当時のFIA副会長)だったんですよ。前年は片山右京さんや井上隆智穂さんがF1に出場していましたが、来シーズンの日本人ドライバーのシートはまだ決まっていませんでした。バーニーとしては日本人ドライバーには誰かしら走って欲しいので、私にオファーが来たんです。「給料は○○○○万円しかやれないけどいいか?」って。私は給料よりもまず乗れることの方が大事ですし、せっかくバーニーからいただいた話でもあったので、シムテックに乗ることに決めたんです。ところがその後右京さんや隆智穂さんもシートが決まり日本人ドライバーが増えたんですね。そうしたらバーニーから連絡が来て「日本人がいっぱいになったからお前は前半ちょっと我慢しろ」って言われて(笑)。それで前半戦は出られず、後半戦から出場できる予定だったんですがシーズン途中でシムテックが倒産してしまい、結局乗ることなく終わってしまったんです。その倒産劇に巻き込まれたのが私が26歳の時。自分が憧れていたモータースポーツの世界、純粋にレースがやりたいという思いだけで入ったのに「俺が今やってるの、レースじゃないよな」って急に熱が冷めちゃって・・・そのシーズンは結局棒に振りました。でもレースは好きだし、ちょうど時間はあるしで、なんかやりたいなと思って今までずっとレースだけで走ってきた中で、F1だけじゃないな、他にもレースはあるんだなとアメリカに飛んでインディに出会った瞬間にF1の熱が一気に冷めて、アメリカのレースをやってみようってそう思ったんです。

1997年 インディライツにて優勝

1998年 全日本F3000選手権出場時

HUMAN TALK Vol.292(エンケイニュース2023年4月号に掲載)

道を拓いてきた男が 道を創る---[その2]

 F1からインディの世界に飛び込んで、レースに対するモチベーションはまた上がってきたんです。インディで数年走った後は日本に戻り、スーパーGTやフォーミュラニッポン、ル・マンにも出場しました。最後はフォーミュラニッポンで自分のチームを立ち上げました。このままドライバーとして乗り続けることもできたんでしょうけど何か挑戦したいなって気持ちがあって、であればチームってものを運営してみようかと。まあやってみたら寝る間も無くてこれはレースにならんなと、ドライバーとしてダメだなとなってやめましたけど(笑)。
 また、トヨタ自動車の開発ドライバーもレースと並行して携わっていました。元々車のエンジニアリングはレースより好きなほどだったので、市販車、レース車両問わずトヨタの開発の方と一緒に仕事ができたのは掛け替えのない経験になりましたね。

ル・マン24時間レースに出場

引退するきっかけ

 2006年に娘のJUJUが生まれて3歳になった頃かな、私がレースをやっているのを見て「自分もやってみたい」と言ったんです。それで3歳にしてカートに乗せてみました。そりゃ最初から上手く乗れなかったですよ。ぶつかって放り出されて病院送りなんてこともあったし。それでもだんだん上手くなってカート練習場に足繁く通っていると他の子やその親御さんと仲良くなるわけです。で、話を聞いているとレースを取り巻く現状って自分が子供の頃の暴走族呼ばわりされていた無理解な周囲の現状とあまり変わっていないなって気付きまして。日本のレース業界の将来はこれでいいのかと結構悩みました。これはもう気付いた人が行動しないと何も変わらないなと思って、じゃあ学校を作ろうということになり、中途半端な気持ちでやったら人に迷惑をかけるからってきっぱりレースを辞めるって決意したんですよね。
 ただレーシングスクールを作るだけなら簡単だったんですけど、それでは意味が無いと思って、ちゃんと国の認可を受けた「学校」として作りたいと思ったんです。最初は教育委員会も文科省も門前払いですよ。それでも文科省の大臣をはじめ関係者に足を運び理解を得て、書類も揃え、3年がかりでやっとNODA Racing Academyを作ることができました。立ち上げ当初は3名しか集まらなかった生徒もいつしか十数名を数えるようにまでなりました。ただ娘のJUJUがフォーミュラに乗り始めた頃から娘にかけるウェイトが増えてきて、これでは他の生徒に迷惑がかかるだろうと一時的に学校は休止することにしました。今はJUJUのサポートとしてヨーロッパでのレース活動に帯同しています。

JUJUさんが幼少期の頃の練習風景

NODA Racing Academyの生徒Jake Persons と共に全日本F3選手権に参戦

レースの面白さを広めたい

 レースのテクニックなんかはJUJUにはあんまりごちゃごちゃと教えたりはしないですね。ヒントみたいなものをあげる。そこで答えを私からは言わない。本人の中に引き出しが無い時に教えてもしょうがないですから。最近では例えばブレーキのかけ方一つとってもそのコーナーに一緒に行ってみてタイヤ一個分のずれがストレートの伸びに影響する、そんな話をすることはありますね。
 世界選手権のフォーミュラEが2024年に東京で開かれる予定です。そこにJUJUが出場することができれば日本のレース界もグッと盛り上がると思うんです。やっぱりモータースポーツはもっともっと盛り上がって欲しいし、市民権を得て欲しい。そこからもっと車に興味を持ってくれるような子達が増えてくれればいい。時代的にはリアルがバーチャルに置き換わり、移動しなくても人とコミュニケーションがとれるようになっている今、移動手段としての車の存在が薄くなってくるのはしょうがない。ただ車の楽しさやレースの楽しさをもっと知ってもらう機会があればファンも増えると思うし、それが東京で開催される時にスター的な日本人ドライバーがいるといないとでは国民の注目度が全然違うわけです。それがきっかけで「モータースポーツってこんなに面白いものだったんだ、こんな選手が頑張ってるんだ」ってなれば打ち上げ花火で終わらずに人気が継続的になると思うんです。別にJUJUじゃなくてもそこにスター性のある選手が出場することがすごく大事だと思うんです。だからもっともっと他の子も出てきて欲しいと思いますね。

アメリカでレースに参戦するJUJUさんとコースに出てサポート

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